以下は、Wikipedia:利用者:Nnhに書いてゐた内容を書き寫したものです。その後、多くの方が手直しをして下さつた御蔭で、以下に擧げた問題點のいくつかは解消されたのですが、私の日本語についての考へ方が盛り込まれてゐるので、その當時の儘書き寫してゐます。



日本語」を書き直したいのですが、私自身は戰直後の國語國字改革(と云ふか改惡)に反對してゐるので、中立的な觀點で書く自信がありません。ここに、氣が附いたことを纏めておきます。

「歴史をかんがみれば、言葉というのは変化して当然なのである。」とありますが、この論理をその儘適用すれば、「人間と云ふのは死ぬのが當然なのである。(だから殺しても良い)」と云ふことになつてしまひます。言葉は結果的に變化して來たと云ふだけで、故意に變化させようとして變化して來たのではありません(明治以降、特に戰後は別ですが)。確かに言葉は變化します。でもその變化を野放しにしてゐたのでは、皆が使ふ言葉がてんでバラバラな物になつてしまひ、言葉が意味を爲さなくなります。變化に對してはそれに抗する力が働き(具體的には、新しい言葉遣ひに對する違和感・不快感など)、その力に打ち克つたものだけが、次代の言葉として認められるのです。「変化して当然」なのではありません。

「そのため、今でも古い表記、かなづかいを使用している文学者が存在する」については、「そのため」の「その」の内容が明確に記されてゐません。それに、ここで「古い表記、かなづかい」と書いてゐる「正字正かな」は、「文学者」だけのものではありません。俳句短歌の世界では、正かなの使用が推獎されてゐますし、少くとも、ここで「正字正かな」の文章を書いてゐるこの私は文學者ではなく一介のプログラマです。

「外来語の多用である。主に英語起源の語彙がふんだんかつ、日常的に使われるようになった。」と書いてゐるのに、特に明治期で盛んだつた外來語の漢語化(正確には「漢語」ではなく「字音語」とでも呼ぶべきですが)に觸れてゐません。現代語で使はれてゐる字音語の大半は、この時期に外來語を譯して作られた物です。さう云へば、漢字を導入したことによるその後の日本語の變化にも觸れてゐません。