自己批判(か?)


漢字で表記する方が意味は明確になるから、和語だからと言つて無闇に平假名で書くのはよろしくありません。私は寧ろ、觀念を客觀的に表現する詞においては積極的に漢字表記を用ゐるべきだ、と思ひます。逆に、觀念に對する判斷を示す辭は、まあ大體の場合、假名で表記される事になります。

膠着語である日本語では、詞と辭が交互に出現します。詞に漢字が出現し、辭に假名が出現することで、所謂漢字假名交じりの文章が成立します。無闇に平假名を使ふ書き方は、この漢字假名交じりと云ふ日本語の表記の特色を殺すものです。

高島先生は、文書の構造を考慮せず、もつぱら語の出自のみによつて、用ゐる文字を決定してゐます。表音主義者のものの見方が偏つてゐるやうに、高島先生のものの見方も極めて偏つてゐると言へます。

私はどうも、人に影響され易いと云ふ所がありまして……。

「現代かなづかいの方が良い」と力説するものを讀んだら、場合によつてはそれに洗腦されてしまふかも知れません。もつとも、さう云つたものはまづ讀まないでせうし、讀むとしても警戒して讀むでせうけど。

何を書いても言ひ譯になりさうです。もう一度「警戒」をしながら高島先生の『漢字と日本人』を讀み返してみます。當分は、おととひまでの書き方で行きます。