>けふの乘車記録

新宿2354(+3)→(9421M[快速ムーンライト信州])→0538白馬

新宿驛5番線に入つてゐたのは、薄黄色地に赤色帶と云ふ正統派特急色の183系でした。「快速ムーンライト信州」は恐らく青春18きっぷの時期だけ運轉されるのであらう臨時列車ですが、專用の方向案内幕が用意されてゐました。

行先が白馬と云ふことで、乘客の大半はスキー客のやうです。冬山登山に向ふ方もをられます。そして例の如く、車輛の寫眞を撮つてゐる「鐵」も數名。いや、明らかに「非鐵」な方も寫眞を撮つてゐるぞ。どうやら記念寫眞のやうです。

列車は3分遲れで新宿を出發。しかし、出發してもなかなか速度が上りません。上らないんぢやなくて、上げてゐない或は上げることが出來ないやうです。何しろ中央線の電車區間ですから、そんなに速度を出して飛ばす譯にも行かないのでせう。都内最後の停車驛・八王子を過ぎてからやうやく速度が乘つて來ました。

とともに、この邊から記憶が途切れ途切れになつてゐます。眠附いたり目を覺ましたりを繰り返してゐたのですが、夜行列車の旅にも慣れて來たのか、寢てゐる時間のはうが長かつたやうです。初乘車となる大糸線の區間は起きてゐようと、松本到着の5分前に目覺まし(携帶電話のアラーム。當然マナーモードです)を仕掛けてゐたのですが……。それで一旦目覺めたものの、また眠りに落ちて行つたやうで、次の瞬間には終點の白馬驛で見知らぬ人に起されてゐました。はあ、これでこの區間を「乘車」としてしまつて良いのでせうか。

白馬では雪が舞つてゐました。一面が眞白になつてゐます。

白馬0653→(1325M)→0711南小谷

次の列車は南小谷行が06:01、信濃大町行が06:13と時間があるので、白馬まで乘つてゐた乘客は皆待合室へ。松本など途中驛で大半が降りたものの、10輛分の乘客がゐるのですから、待合室は大變な混雜(と云ふほどでもないか)になりました。

これから南小谷を經て糸魚川へ行く譯ですが、南小谷始發糸魚川行の初電は07:55。白馬發06:01の列車に乘つても良いのですが、次の06:53發の列車に乘つても充分間に合ひます。實際、驛に掲出されてゐた時刻表には、06:53發の列車に「糸魚川行に接続」と書かれてゐます。「接続」と言つても44分待ちですけど。06:01發の列車には大勢の人が乘り込んで行きましたので、私は次の列車で南小谷へ行くことにしました。

さうさう、その時刻表には「北アルプス線(大糸線)列車発車時刻表」と書かれてゐました。大糸線には「北アルプス線」と云ふ愛稱があるやうですが、市販の時刻表(JTB,JRとも)では完全に無視されてゐますね。誰がそんな名前で呼ぶんだと云ふやうな愛稱(「森と水と……」とか、「銀河ドリーム……」とか)よりも、こちらのはうがよつぽど「マシ」だと思ふのですが。

6時53分。入つて來たのは新造車輛E217系2輛編成のワンマン列車でした。車輛の中央部に片側だけのボックスシートが6列(12人分)あり、あとはロングシートになつてゐます。

南小谷0755→( 425D)→0850糸魚川

南小谷驛の待合室へ行つてみると、またしても滿員でした。どうやら、白馬發06:01の列車の乘客がその儘糸魚川行の列車を待つてゐるやうです。椅子に坐れさうもないので、ホームにまだ停車してゐた、先ほどまで私達が乘つてゐた列車の中で待たせて貰ひました。この列車は折返し松本行となり、糸魚川南小谷行の列車(これが折返し糸魚川行となる)の到着を待つて出發するのです。だからその儘降りずに待つてゐるのが正解なのでした。

07:24に糸魚川南小谷行の列車が到着。待合室で待つてゐた人達も乘込んで來て、車内はほぼ滿席でした。車輛はキハ52ディーゼル車です。南小谷以北は非電化なのです。

窗の外には姫川の雪景色。と言つても窗が曇つてゐてはつきりとは見えないのですけど。夜行列車の疲れもあつてウトウト。氣が附いたら糸魚川の2驛前でした。

糸魚川0853→( 538M)→1022小杉→實家

糸魚川は見るべきものが色々あるのですが(赤煉瓦の車庫とか)、乘換時間が3分しかないので横目で見るだけでした。

實家→越中大門1100→(428M)→1103高岡

私の實家は、小杉驛へも越中大門驛へもほぼ同じくらゐの距離の所にあります。

越中大門驛(所在地は大門町ではなく大島町)で列車を待つてゐる間に、特急列車が2本走り拔けて行きました。さすが特急銀座。

高岡驛に前に來たのはいつのことだつたかもう思ひ出せないのですが(5月に高岡へ來た時も、高岡驛に入つてゐません)、私の知らない間に驛内にマクドナルドが出來てゐました。が、それ以外は私が知つてゐる高岡驛と變はつてゐません。「華やいで高岡 今あなたがそこにいる!!」と云ふ看板は、恥づかしいから止めてくれ。

高岡1127→(535D)→1154氷見1202→(534D)→1229高岡

氷見線は、高岡の隣り越中中川まで乘車したと云ふことに一應してゐます。小さい時に、親戚の家へ行く爲に越中国分まで乘つたやうな氣もするのですが、記憶が曖昧なのでこれは認めないことにしました。越中中川までは確實に乘つてゐるのですが、いづれにしても終點の氷見までは乘つてゐません。

氷見線も非電化なのでディーゼル車です。乘客は、觀光客が半分、地元の人が半分、「鐵」が1名と言つた所です。

能町は貨物驛竝設、と云ふよりも、貨物驛の眞中に旅客驛があると云ふ感じです。この邊から、それまでの住宅街から一轉して工業地帶となります。次の伏木も貨物驛竝設。しかしここは「万葉歴史館」の最寄驛でもあり、車内放送でその案内をしてゐました。かつてこの邊に越中國の國府があり、萬葉集の編者である大伴家持が國守としてこの地に赴任、その任期中に多くの歌を殘しました。と云ふことで、高岡市伏木は「萬葉の街」で賣出してゐるのです。

次の雨晴でも車内放送で觀光案内をしてゐました。「雨晴」と云ふ地名は、判官義經が兄頼朝に追はれて奧州へ落ちる際、この地で俄雨に遭ひ、岩蔭でその雨が晴れるのを待つたと云ふ傳説に因みます。

終點の氷見でも觀光案内(と云ふよりも、もはや氷見市觀光協會の宣傳)がありました。歸りの高岡行では觀光宣傳はありませんでした。

高岡1316→(337D)→1406城端1413→(338D)→1501高岡

今度は城端線へ。こちらは高校生の時に用事で終點城端まで乘つてゐる筈なのですが、その時のことは殆ど覺えてゐません。

城端線は1・2番乘場です。普通乘場の番號は本屋(驛長室のある建物)のある側から1番2番となるのですが、高岡驛は全く逆で、一番遠い城端線が1・2番で、一番近い氷見線が8・9番となつてゐます。城端線氷見線の前身は私鐵の中越鐵道で、官鐵北陸線(と云ふ名前はまだありませんでしたけど)が高岡に來る前に、城端から黒田(高岡の少し手前、現在廢止)まで鐵道を敷いてゐました(本州の日本海側では初の鐵道です)。高岡まで敷かなかつたのは、この時點で官鐵高岡驛の位置がまだ決まつてゐなかつた爲です。官鐵の驛の場所が決定すると、その隣に驛を作つて高岡まで線路を伸ばしました。中越鐵道は氷見まで延伸した後國有化されました。恐らく一番最初に高岡に乘入れた中越鐵道に敬意を表して、その當時の中越鐵道の驛に當るホームを1番・2番線にしてゐるのではないかと思ひます。

城端線は殆どが田園地帶の中を進みます。この時期は一面雪原となつてゐます。

高岡1538→(443M)→1556小杉→實家

この時間、下り(富山方面)は何本か普通列車があるのですが、上り(金澤方面)の普通列車は、14:42高岡發の後15:59發まで1本もありません。この間に上りの特急列車が6本停ります。さすが特急銀座。18きっぷで北陸方面を旅される方、かう云ふことがありますので注意しませう。



長々と書いてしまひました。いつにも増して力入つてます。地元ですから。