加藤唐九郎氏は重要文化財に認定してもらはうとして作つたわけではないのです。昭和12年8月に焼かれたこの一対の壺を、当時唐九郎氏が住んでゐた守山志段味村の村長が村の出土品だとして発表してしまひ、文部省のある文化財調査官が重要文化財に値すると認定して昭和34(1959)年に重要文化財指定されたものです。翌年になつて専門家の間で疑惑が持ち上がり、マスコミによつて報道され、唐九郎氏の周りが騒がしくなつてきました。そして、自作であることを公表したといふわけです。

これ以降、唐九郎氏は一切の公職を辞任して作陶に没頭し、唐九郎ではなく「一無斎(一ム斎)」の銘を使用しました。