東北の神社巡り 1日目

只今郡山。けふは水郡線沿線の三社を詣でて來ました。細いことは神道グループに書きますが、とりあへず書いておきたいこと。

  • 馬場都々古和氣神社、御朱印代五百圓だつた*1
  • 石都々古和氣神社、驛から「神社の入囗まで」は確かに10分なのですが、そこから社殿までは急な石段をかなりの長さ登らないといけないので、併せて20〜30分は見ておいた方が良いでせう。御朱印は麓の社務所で頂くのですが、社務所の場所が判り難い。
  • 驛の階段で足をくじきました。

(以下、歸つてから書いたもの。神道グループに書いた物を轉記。)
けふは水郡線沿線の陸奧國一宮三社を巡ります。全て社名に「都都古和氣(つつこわけ)」が附き、味耜高彦根命(あぢすきたかひこねのみこと)を主祭神とする神社です。うち二社はどちらも「名神大社・都都古別神社」を名乘つてをり、しかも同一町内(と言つても歩いて行くのはしんどい距離)にあります。一つの神社が分かれてしまつたのか、どちらかがどちらかの分祠なのか、あるいは元から別の神社なのか、今となつては判らないと云ふ二社です。京都の賀茂神社のやうな共通の祭事がある訣でもなく、全く別の神社になつてゐます。區別の爲、鎮座地名を頭に附けて呼んでゐるやうです。
元々は「都都古和氣」なのですが、明治時代の太政官符に「都都古別」と書かれてゐたことから、「都都古別」と書くことになり、戰後、馬場の方のみ舊來の「都都古和氣」に戻したとのこと。

なほ、「都都古和氣」三社は福島縣内で、水戸よりも郡山から行つた方が近いのですが(或は、白河から棚倉・石川までJRバスが出てゐる)、これは、私がもう一度水郡線全線に乘つてみたかつたからと云ふだけの話です。

八槻都都古別神社

まづは八槻都都古別神社。最寄驛は近津驛で、驛を出て太い道(國道)にぶち當たつたら、後は南の方向に道なりに進めば鎮守の森が見えて來ます。バスはあるのですが、本數が少過ぎて使へません。歩きませう。
樓門に「奧州一宮」の文字。着いたのが10時前で社務所は閉まつてゐたのですが、參つてゐる間に職員さんが來られました。參つてゐる間にまた小雨が。本殿の右には境内社四社が鎮座してゐるのですが、うち二社、朽ち果ててるやうな。
八槻都都古別神社から南に少し行つた所に、當社の社家があり、重要文化財になつてゐます。汽車が來るまでまだまだ時間があるので(水郡線は一時間に一本。時間によつては二時間に一本)、そこも見に行つたのですが、中に入れなかつた。社務所に何か言ふ必要があつたのかも知れませんが、神社まで戻つてまたここまで來るのも面倒なので、そのまま驛に向ひました。

馬場都都古和氣神社

次は馬場都都古和氣神社。最寄驛は磐城棚倉驛で、驛前の道を眞つ直歩けば裏參道の入口に着き、そこから入ると社殿の横に出ます。ここも歩くしかない。タクシーはありますけど。
手水舍まで行かうとしたのですが、先程の雨で參道の石が滑り易い。參拜の後、境内をうろうろして、本殿の裏に石段があつたので、「本殿を見下す所に鎮座するとは、どのやうな神樣なのだらう」と見に行つてみると、東照宮と山王さんでした。手を合はせてから石段を下りると、最後の一段で足を滑らせました。咄嗟に手をついて無事だつたのですが、これ、この日の夕方の出來事の豫言だつたのかも。
御朱印を戴かうと社務所へ向かつたものの、人氣(ひとけ)がない。それどころか、入口にはバリケードがしてある。かつて授與所だつたのだらう所には、「用のある方は神社前の宮司宅まで」と地圖入りの貼紙がしてありました。その宮司宅へ行つてみると、おばあさんが出て來られました。御朱印を戴きたい旨を傳へると、どこかへ電話。どうもこの家は宮司さんの御母様(すなはちこのおばあさん)の家で、現宮司は後の新しい家に住んでをられるらしく、こちらに呼び出されたのでした。玄間に腰掛けて御朱印を待つてゐたのですが、ふと見ると、おばあさん、寢てる? 後で考へてみれば、この日は8月15日。私が宮司宅に御邪魔したのは正午直前。と云ふことで、寢てるのではなく默祷をされてゐたのかも知れません。私はすつかり、さう云ふ日のさう云ふ時間だと云ふことを忘れてゐたのですが。こんな時間に押し掛けて済みませんでした。
汽車の時間までまだまだあるので、宮司さんに勸められた、馬場都都古和氣神社の舊社地である棚倉城址へ行つてみました。濠はあるのですが、城の建物は何も殘つてなく、宮司さんが仰られた通り「此々に昔神社があつたのだなあ」と思ふだけでした。燈籠があつたので神社の遺構かと思つたのですが、大正時代の銘が入つてました。

石都都古和氣神社

次は石都都古和氣神社。「いし」ぢやなくて「いは」です(馬場都都古和氣神社で「いし」と言つて、宮司さんに突つ込まれました)。
最寄驛は磐城石川驛。驛から徒歩10分と『諸国一の宮』などの本には書かれてゐるのですが、一日歩き通して疲れた足ではもう少し掛かりました。しかも、驛から歩いて10分の所にあるのは神社の入口。石都都古和氣神社は八幡山と云ふ小高い丘の頂上にあるので、神社の入口からさらに山道を歩く必要があります。併せて20〜30分は見ておいた方が良いでせう。ハアハア言ひ乍ら山を登り、汗をダラダラ流し乍ら參拜しました。ふと見ると、社殿の横から參道とは別の自動車が通れる程の道が伸びてゐます。歸りはこちらを通りました。緩やかな坂ではあるのですが、その分距離が長くなつて、大變さは變はらないかも知れない。
御朱印を戴きたいのですが、山の頂上には社務所・授與所はありませんでした。恐らく麓の參道側にあるのだらうと捜したのですが、それらしき物は見當らない。神社入口前の川の向うにも鳥居があり、その横に建物があつたで、そこまで見に行つたのですが、社務所ではありませんでした。確か玄松子さん(http://www.genbu.net)がここにも來られてゐる筈とW-ZERO3でサイトを見てみると、玄松子さんは社務所には行つてゐないやうなのですが、石都都古和氣神社の公式サイト(http://www13.plala.or.jp/seihuukan/)へのリンクがあり、そこに社務所の位置が書かれてゐました。參道から少し離れた場所にあるとのこと。判らない訣です。無事に御朱印を戴くことが出來ました。

庭坂

磐城石川驛から本日投宿する郡山へ。そこから福島まで行つて、奥羽本線の在来線(山形線山形新幹線でない方)に少しだけ乘つて來ました。福島驛附近で山形新幹線と在来線の線路が別になつてゐるので、一應乘つておきたかつたのです。ここで悲劇。乘つてゐた列車は福島から2驛先の庭坂驛までで、ここで折返します。出發まで少し時間があるので、驛舎の冩眞を撮らうと跨線橋を渡つたのですが、階段を下りるときに階段を蹈み外し、左足を挫いてしまひました。この左足の怪我が、この旅の最後まで尾を引くことになるのです。
此々は神道グループなので、神道關聯のことも書きませう。跛(びつこ)を引き引き驛前まで出てみると、そこには3つの石碑が立つてゐました。一つは「皇大神宮」。當時の鐵道大臣の筆によるものです。庭坂驛は奧羽山脈板谷峠の東側の驛で、當驛は機關車の増解結を行ふ重要な驛でした。そこに天照大神の御神威による鐵道の安全を祈願して建てられた碑なのでせう。一つは「狐林亘四王権現」。狐林は驛の所在地の字名ですので、當地の神樣なのだらうと思ひますが、詳細は不明。もう一つについては記録を殘してゐませんでしたが、私が寫眞も撮つてないと云ふことは、それほど重要でないと思つたのか。

*1:御朱印代の相場は三百圓。